佐々木漣 ブログ 漣の残響

闇の中に詩を投げろ

よるもく相互合評会 魚野真美 太陽の親子

〇よるもく相互合評会とは??
詩舎 夜の目撃者(通称よるもく舎)内で、不定期でゲストと相互に発表しあう場を作ろうというもの。
作品を相互に批評、感想を出して発表しちゃおうと勝手に考えた魚野真美さんのブログ、「魚野真美 詩舎 夜の目撃者」における企画です。

今回は、私、佐々木漣が、批評/感想を書かせていただきました。

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太陽の親子
魚野真美

 

夜明け前
いつかあなたと走った道路に寝そべり
あなたの冷たさと同じくらいに
身体は硬直して
冷たくなっていくのがわかる

空が白む頃
誰もいなかった道の上に
太陽の子が走った
横たわる私を踏むことなく
太陽の子は西の方角へ走った

やがて少しずつ身体は明るくなり
目覚め起き上がる私は
太陽の親子といつもの朝食を囲む

今日もまたあなたとの冷たさを
未だ共有できずにいる

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第一連はほとんど100点ではないだろうか。「冷たさ」の中でこれからどんな詩が展開されるのか、読者をぐいとつかむ、冷たい手がある。この詩では「身体」と書かれているが、「体」だといくらか肉感的に過ぎ、「からだ」だと弱いので、私も「身体」と表記すると思う。作者はそのあたりも意識したのだろうか?

第二連は、「空が白む頃」と始まるが、これだと、第一連の「夜明け前」と時間の経過が少し早い気がする。別の表現を使うか、もう一連何か書くと、読者もより自然に、夜明け前からの経過を体感できるのではないか? スタインベックに『朝めし』という掌編があるのだが、少し参考になるかもしれない。別の第二連を挿入するのであれば、まだ「太陽の子」は出てこなくて、後半への武器として、使った方がより効果的かという気もする。「太陽の子」という表現は、ありそうでなかった表現で、いかにも元気がありそうだ。しかし、ただ元気なだけではなく、ここでは生の反転を目論んでいる。「太陽の子は西へ走った」とあるが、古代エジプトでは西は「死」であり、この太陽の子が、太陽ではないので、どこかに無邪気さがあり、それが「死」を暗示している。

第三連の冒頭は、夜からの復活を意味していると読める。「身体は明るくなり」は肩に力の入っていない、でも確かにこの詩の変化、次の段階への移行を示しており、この辺はやはりセンスなのだと思われる。「目覚め起き上がる私は/太陽の親子といつもの朝食を囲む」、ここがこの詩の最大値なのだが、どうとらえるか非常に難しい。人によって、読み流せる人もいれば、つまずいてしまう人もいるかもしれない。この前後に推敲の余地はまだあると思う。それはつまりこの詩の伸びしろがまだあるという、前向きなとらえ方をしてほしい。

ところで、この作品では、太陽が単独で出てこない。出番があった方が良い気もする。例えば「太陽の親子といつもの朝食を囲む」の部分で、この詩において太陽が何者であるかを提示できないだろうか? またこの朝食場面は詩全体の中で異色な部分であり、ここだけ明らかに浮いてしまっている。それを良しと捉えることもできるし、シュールレアリズム的で作品を壊していると受け取ることもできる。ただ、こういう何かが必要なのは確かで、熟考すべき点である。ただ、それはなかなか難しい作業になる。そこが詩を書く醍醐味でもある。個人的には朝食を囲む風景はおもしろい。

第四連はたった二行だが、まるで人が死ぬ美しさと、死を受け入れられない静かな葛藤で終えるのは、十分な余韻を残している。読者はここで腕を組んで「うーん」と考え込んでしまうかもしれないし、「こういう結末もあり」ととる人もいるだろうし、「これ以上何を書けばよいのか」と潔い二行を讃える人(私)もいるだろう。

ここには死んだ人への思い、もう会うことのない人、との心に残された、わずかな繋がりがあり、前向き、元気さというものはない。その一方で朝(太陽)は来ており、太陽の扱いにはやはりいくらか困惑する。しかし、詩にはこういった唐突さも必要であり、太陽があるから、保たれている。例えばこれが月だったらどうなるかと言うと、唐突さはたぶんないし、意外性もない。この辺りを工夫することもできる。ただ、あまり長く書くと冗長になるようにも思えるので、そのあたりの推敲はトライ・アンド・エラーで書く方は大変な思いをするだろう。太陽か死か、どちらを選ぶのか? あるいはもう少し間口を大きくして、太陽そのものも、冷たいもの、死として、もっと取り入れる試みもできるかもしれない。

全体を読み終えて、冒頭から最後の一語まで流れは良く、読みやすい。たとえも難解ではない。詩は語句の難しさや、奇を衒うものではない、と改めて思わされた。やや自分の世界に沈んでいるが、それは多分、大事な人を失ったからなのではないか、と深読みできる。失恋かもしれないし、死別かもしれない。それは敢えてわからせる必要はないもので、読者に読解の自由さを含むのもまた、詩の面白さではないか。