『嘘の天ぷら』佐々木貴子 詩集 感想
飼育
「僕は鬼を飼っていた」
冒頭から、負の自分と対峙していく詩人の覚悟がある。「鬼」は三角みづ紀さんの「オウバアキル」にもあるが、佐々木貴子の鬼はもっと感情豊かだ。それは「鬼の成長が僕の唯一の楽しみだ」にも見られる。
詩の後半の畳みかけるような展開で、「僕の死に顔。」で詩集をスタートさせている。後半の畳みかけは、詩集全体がショートショート的で、難解ではなく、肩の力を抜いて読むこともできるし、よりハードに読むこともできる。ショートショート的なので、詩の中のフェーズの移行や、二転三転する筋を詩人は自在に使っている。
「鬼の成長が僕の唯一の楽しみだ」。ペットとは淋しさとの同期で、成長期の二面性。鬼とは誰もが持つペルソナであり、自分であった。母→アイツ(他者)→僕、この畳みかけはとても良い。成長期の危うさが、佐々木の中ではまだ生身の闘いとしてあるのか?
「鬼の顔が死んだお母さんになっていた。」からは詩が迫ってくる。
影
正直、謎である。佐々木貴子にとって社会のフツウが自己のフツウではないのだろう。
影とはアイデンティティーの不成長か。影と自分を入れ替えることで不条理が現実として成り立ち、破綻型の詩である。一篇目に比べるといささか弱いが、ここでもやはり後半のフェーズの移行/展開力は維持され、「もう、私には血の一滴も出ない」。魅力的で興味深い箇所も多いので、読者の方が色々探すことができるだろう。佐々木はファンタジーも得意とするところなので、そのような視点から読むとまた違った味が出る。何となく中学生の感覚を思い起こす。
漂白
漂白というアイディアがとても面白い。
みなと同じになろう、変わろうという努力の痕と、それでも個性が勝ってしまう人への哀歌。ヤモリの結末はとてもうまい。感動的である。P15の「漂白され~涙ぐんでいた。」は変わろうともがいている。
学校の人
P18は良。最後はやはりうまい。
「わたしの桜は今が見頃です」のわたしの桜は、何か? 悲鳴の抽象化か。また、透明とは自己意識の低下か?
この詩集には「学校」を思わせる作品が多いが、佐々木にとって学校とは何だったのか?いわゆる黒歴史なのだろうか? 幼さがあるがわざとなのか、詩人の心なのか? この詩集は現実の中の混沌。その一部をなしている一篇。
人柱
タイトルからして、不確かさの中にある諧謔。いくらかまとまりに欠けるが、まとまっていればよいというものでもない。不条理や混沌はそれ自体として受け止めるしかないからだ。何故か辻征夫を思い出した。
何となくだが女への産まれ変わりが、先の方で見え隠れしている気がする。
氷点下
学校やクラスというのは何なんだろうか? 行くべきところなのだろうか? 自己の不在の必死の訴えは全体として届いていない。この詩の世界では仮面が必要で、それでいて場の理論を壊している。それが病として詩人の体内でひたすら真っ赤な雪が降っているのだろう。
先生
「あれから注意深く夕焼けを見る。引火しそうな心が痛い。やがて誰もが束になり、本当に燃える日が来る」は素晴らしい。どこかキリスト教的。ファンタジー性。ショートショート詩人のファンタジスタ。
交換
母親へのこだわり。
現代社会をうまく切り取っている。全てが商品化され、人間そのものもその対象となっている。母を売って、ソファーを買うというのは、女として母親の呪縛を力ずくで切り、捨てている。文末の「僕の商品を」は印象的。
名前
ペルソナの頻発。多重人格的。役割による人の違いは誰にでもありうる。P39「わたしは何人かのわたしを~」最後までが秀逸。
企て
「中止にする。」の冒頭は凄い勇気が必要だったのではないか? この出だしで詩を保つことは、レベル高いな。体育祭の中止は何を意味するのか? 全体というものに対して「個」の反発か?
トイレの拓ちゃん
不思議なショートショート。ある種のファンタジー的な断絶を感じた。「オンナには簡単になれない」というのは女性の本音か?
台本
全体が立ち止まっている人間への暗喩か? 空想力。繰り返す不条理というギリギリの諧謔。「今日までわたしは犬の役だったのですか。」の終わり方は、ゾッとした。カフカの『審判』のような衝撃。人間は毎日死んでいる。次の日も、その次の日も。
臭覚
暴力性の爆発寸前。家族が臭うとは知らなかった。こういった視点の持ち主がやはり佐々木貴子という詩人なのだ。自分から破綻を求めている。「棺桶に入れられた。初めて入った棺桶は寝心地が良かった」。ショートミステリー。臭う→洗う→狂気。
屋上
「わたしは風に選ばれたのです」→跳ぶ雰囲気・予感。イカロスを思い浮かばせる。
隠された死。突然の暴露。夢想の残虐性。
「気を付けて。ここは、以前、事故があった場所だから」と。で、風はささやいています。「そろそろ新しい読み物が欲しい」と。
備品
P63の、僕はこのようにいて~生きている時より疲れている。素晴らしいフェーズの移行。備品として生きる苛烈さを受け入れようとしている。
天狗の日
小休止? 諧謔が全体として何かに変わろうとしている。もがいている詩人の姿がそこにあるのか?
愉快な地獄
第一連が良い。不条理=母は佐々木にとっての根深い病なのか?
偶数の人
男=奇数
女=偶数
ロボット
「今日の孤独も新鮮です。」どこから生まれてくるのだろう、佐々木貴子の言葉は? 「言葉は話せるのに、さよなら、が言えない」はかなわない恋。触ったら痛いだろう。
夭折
アイデンティティーの崩壊がある。自己と他者の分類がうまくいっていない。
「わたしが元気でなくなればなくなるほど夭折は笑うのだ」は凄い文章。そう書けるものではない。
「どこへ行っても、葬送曲は聞こえない。」のは自分も夭折も死さえも、それぞれ断絶しているから。
影のお陰
影と陰は意図的か? 何がどうなのか説明できるほど読み込めなかったが、余韻が混沌といていた。
全体として、一見ライトなのだが、文章そのものは太い樹木のようだ。それが白昼夢の中を歩いている。学校、母親へ拘りが散見させるが、佐々木にとってそれは書かずには乗り越えていけない壁なのだろう。そのために犠牲にしたものもあったろうし、新しく得た自分の詩の形、可能性も感じているだろう。佐々木はこれが第一詩集になるわけだが、本当にこれが第一詩集なのだろうか? クオリティーとして破綻している詩はなかった。読者にとって読み方は自由であり、猫のような気まぐれで、読み返せば、また違った発見があるだろう。
と、ここまで重いことを書いたが、これはショート・ショートの諧謔詩で、必ずしも重たいだけが取り柄の自己憐憫ではない。佐々木は詩人として、そんなにやわではない。
てんぷらは毎日食べないけれど、時々食べるとやはりうまい。繰り返し読まなくてもいいが、時々読み返して堪能できる一冊。