佐々木漣 ブログ 漣の残響

闇の中に詩を投げろ

あなたの耳に届きますように

これは自殺ではありません
ただの出来事
廃棄物を処理しただけ
それを燃やして、海にまいてください
私は地球の羊水に還っていくだけです
もう、余計な心配はいらないし
もう、余計な病名は必要ない
望まれて生まれ、望まれて死んでいく
矛盾が、
楽しげに踊りながら
底へ底へと沈んでいく
それが名を捨て去った私の、生来の姿です

つぼみが少しずつ開花する風の便り
それが私です
温暖な季節に釣れる魚
それが私です
爆ぜる栗に、年甲斐もなくはしゃぐ
それが私です
肌切れる冬の、鱈の鍋を
私の知っている人たちと食べてください
その夜は、愛し合ってください
ただ、ただ、たがいの身体を温めるために
その夜は、愛し合ってください
あらゆる比喩が
理由のない鳴き声を握りしめながら
また生まれてくるでしょう
涙をぬぐってくれる人によって

あぶくがうかんでいく
あぶくがゆらゆらうかんでいく
こどもなのか、おとななのか
ともだちなのか、こいびとなのか
だれもしらないあぶくが、うかんでいく
いつかきっと、わらいごえになって
とおいさざなみのおとが
あなたのみみにとどきますように

空想癖の終焉で

生きていくことに妥協を覚えた心臓は時々、
握りつぶされたような眠りに、落ちる
最初は一秒、次は二秒
影は助走のように長くなる
どこまで跳ぶのか、行くのか
自死の発作が自らの中で目覚め、
息ができないと叫ぶ

歩んだ足跡たちはどこへ消えたのだろう
未来は救済でない、といつ知ったろう
正しさだけでは生きてこれなかった
読み書きができない私は、国益のため
何度でも捨てられていく
そして何かを拾うように、空巣を繰り返した
憧れという疎ましさを頭の中で、何度も殺した
つり橋で踏み外した失敗は、
頑なまでに人生の失敗となる

今、床を磨くことを仕事にしている
品川のビルで夜九時から、朝の五時まで
あなたの革靴の裏側が、反射するほどの拘りを持って
仕事に良いも悪いもないはずなのに、
誰かがカースト制度を導入する
「こんな自分は……」と
一人描いた空想に
埋没していく人の足を私は見てきた
音が少し擦れて聞こえる
知らない擬態語がざらついて聞こえる
辞表の代わりに、遺書を書いた
それでも一日を勤め上げる
黒いと言われている職場で、
汚れない方がおかしい

「またどこかに忍び込みたい」
睡眠導入剤
空想癖の終焉で弄びながら
握りつぶされたような孤立に全裸で浸かる
湯が凍っていく。罰なのだろう

ふっと、飛び出した真昼の国道で 
男は祈る間もなく、人をやめた
美辞麗句も箴言も、本物の絶望は救えない
脳がぐったりとその呼吸をやめる
安らかに音もなく

セルフィー

父親が十七歳で初体験したフィヨルドは、
この世のものだったのだろうか?
心の中で固くなったパドルを握り、
その美しい迷路に、
ゆっくりと燕下するように入っていった
古くから伝えられてきた
聖別された熱量で共有する
互いの痛みと悦楽
ふっ、と漏れる水の声が
しん、と響く明け方の精霊に
時が来たことを教えられた

そして、産まれた
つるんと滑り落ちた豆が尻を叩かれ
おぎゃあ、と泣いた
幸福と不幸のバランスを
悟っていたかのように
おぎゃあ、と泣いた

よく晴れた春の草原で、
屈折した体を抱擁し、ゆっくりと、
ゆっくりと、揺すってくれる父
あの子は片端だという噂話を
背中で守り、
あてられた紙くずを折り曲げて、
一羽の鶴にした
羽ばたきが、
色彩の風に乗った

母は夕餉の準備に追われている
食事の支度ほど敬虔な行いはない
愛には表面張力があるから、
スプーンからこぼれ落ちることはない
食卓の風景
毎日が救済だった

十七歳で逝く僕を
全力で体を揺すり止めようとしながら
「もう、戦わなくていいよ」と
そこにいる全員が確かに聞いた
立っている人が崩れた

パドルの音が、
フィヨルドの奥へと戻っていく
誰も乗っていないが
吐き出される白い息が空気に混じる
去っていくのか帰るのか、誰も知らない

父が、
いつものひだまりをつくる
人はただの体温なのかもしれない
でも、それ以外何が必要だろう?
セルフィーで三人の写真を撮る
何度も、
何度も、
何度も撮る
誰も止めてはならない
起こらない奇跡が起こったかのように
するために
何度でも
何度でも
その間、彼らは永久に三人でいられるのだ

 

逆光

八月の凍てつく光が
今日も人を酷暑にする
人間の温暖化は着実に進んでおり、
いつ発火してもおかしくない状況で、
侮辱ほど簡単な起爆装置はない

自ら地雷を踏んだジャーナリストが
身を賭して叫んでいる
子どもたちに民の種を託せるのか
立ち尽くす以外に、道はないのか

人間の凋落
それはもう始まっていて
鎖を外された者は早速、
金色のピスをする
その姿、犬そのものだ
倫理の潔白は蒸発し続け、
上空へ立ち昇っていく
大量の漂白剤が、
季節はずれの雪となって
有色人種に降る

人々は疑心暗鬼に疲れ果てた
怒号が地鳴りになって、大きな家が揺れている

斬首された寛容さが足元にころんと転がり
スプリンクラーのように
鮮血を噴射する
三歩、歩いたという
骸こそが生き、
ねっとりと発情していて
真夜中に翻る国旗がいよいよ艶かしい

戦前にとって戦後は通過儀礼で、
濁った精液が火のように強く射精され、
燃える痛みが
悪意を持って幸甚を妊娠させた
だが、孕んだ子は一向に出てくる気配がない
耳を澄まさずとも聞こえるヘイトスピーチ
子宮の中でテロリズムを実行している

破けた空から降ってくる「第九」歓喜
生命は逆行しない、逆光するだけだ
人間にとって、最善とは思われない姿で
八月の凍てつく光は、
今日も代わり映えしない

第一回よるもく舎■合評企画 佐々木漣『漂泊の虎』

〇よるもく相互合評会とは??

詩舎夜の目撃者(通称よるもく舎)で、詩を相互に発表しあう場を作ろうというもの。
毎回作品を相互に批評、感想を出して発表しちゃおうと勝手に考えた、魚野真美 詩舎 夜の目撃者」における企画です。今回は私の作品『漂泊の虎』です。

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漂泊の虎

佐々木漣

 

すっかり朽ちた森の中で、独り彷徨う
昨日の太陽はもう昇ってはこない
永遠のような冬、欠けた月
風が枝を切り、
剣山のような凍土が下から体温をつらぬく
探しても探しても、
勝者の痕跡は見つからない
戦い、敗れ、失った
火炎のような瞳を
金色の縄張りを
残ったのは骸のような私のみ
やがて夢を見るように目を瞑れば、
今でも思い出せる
繁栄の歳月
木々の囀り
星霜の証
大鹿との格闘
猛々しい獣へ
森が称賛の唄を唄っていた

彼らとともに、滅びることもできる
あるいはそれが幸福なのかもしれない
ここで得たものはすべて、結局、ここで失われるのだ
皆、寂滅と土へ還った

これからどうすべきだろう?
沈黙よりも重い空腹の重さ
いまさら漂泊ができるだろうか?
汚れた爪、牙も折れ、
すっかり老いさらばえた
縄張りの中でしか生きてこなかった私は
一匹のカワズと一緒ではないか

とても恐れている
知らないと知っていることがあまりに多すぎるから
信じる根拠など、何処にもありはしない
しかしそこに、可能性がある限り
私が虎であり、まだこの身の内に、その強さが、残っているのなら
取り戻そう
自分の誇りを
授かったこの体の均斉を
再び出逢うだろう困難の恵みを

月を見上げ、
それから歩み始める
新雪の上を、音もなく
ずっと

 

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魚野真美さんからの批評/感想頂きました。

こちら

よるもく相互合評会 魚野真美 太陽の親子

〇よるもく相互合評会とは??
詩舎 夜の目撃者(通称よるもく舎)内で、不定期でゲストと相互に発表しあう場を作ろうというもの。
作品を相互に批評、感想を出して発表しちゃおうと勝手に考えた魚野真美さんのブログ、「魚野真美 詩舎 夜の目撃者」における企画です。

今回は、私、佐々木漣が、批評/感想を書かせていただきました。

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太陽の親子
魚野真美

 

夜明け前
いつかあなたと走った道路に寝そべり
あなたの冷たさと同じくらいに
身体は硬直して
冷たくなっていくのがわかる

空が白む頃
誰もいなかった道の上に
太陽の子が走った
横たわる私を踏むことなく
太陽の子は西の方角へ走った

やがて少しずつ身体は明るくなり
目覚め起き上がる私は
太陽の親子といつもの朝食を囲む

今日もまたあなたとの冷たさを
未だ共有できずにいる

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第一連はほとんど100点ではないだろうか。「冷たさ」の中でこれからどんな詩が展開されるのか、読者をぐいとつかむ、冷たい手がある。この詩では「身体」と書かれているが、「体」だといくらか肉感的に過ぎ、「からだ」だと弱いので、私も「身体」と表記すると思う。作者はそのあたりも意識したのだろうか?

第二連は、「空が白む頃」と始まるが、これだと、第一連の「夜明け前」と時間の経過が少し早い気がする。別の表現を使うか、もう一連何か書くと、読者もより自然に、夜明け前からの経過を体感できるのではないか? スタインベックに『朝めし』という掌編があるのだが、少し参考になるかもしれない。別の第二連を挿入するのであれば、まだ「太陽の子」は出てこなくて、後半への武器として、使った方がより効果的かという気もする。「太陽の子」という表現は、ありそうでなかった表現で、いかにも元気がありそうだ。しかし、ただ元気なだけではなく、ここでは生の反転を目論んでいる。「太陽の子は西へ走った」とあるが、古代エジプトでは西は「死」であり、この太陽の子が、太陽ではないので、どこかに無邪気さがあり、それが「死」を暗示している。

第三連の冒頭は、夜からの復活を意味していると読める。「身体は明るくなり」は肩に力の入っていない、でも確かにこの詩の変化、次の段階への移行を示しており、この辺はやはりセンスなのだと思われる。「目覚め起き上がる私は/太陽の親子といつもの朝食を囲む」、ここがこの詩の最大値なのだが、どうとらえるか非常に難しい。人によって、読み流せる人もいれば、つまずいてしまう人もいるかもしれない。この前後に推敲の余地はまだあると思う。それはつまりこの詩の伸びしろがまだあるという、前向きなとらえ方をしてほしい。

ところで、この作品では、太陽が単独で出てこない。出番があった方が良い気もする。例えば「太陽の親子といつもの朝食を囲む」の部分で、この詩において太陽が何者であるかを提示できないだろうか? またこの朝食場面は詩全体の中で異色な部分であり、ここだけ明らかに浮いてしまっている。それを良しと捉えることもできるし、シュールレアリズム的で作品を壊していると受け取ることもできる。ただ、こういう何かが必要なのは確かで、熟考すべき点である。ただ、それはなかなか難しい作業になる。そこが詩を書く醍醐味でもある。個人的には朝食を囲む風景はおもしろい。

第四連はたった二行だが、まるで人が死ぬ美しさと、死を受け入れられない静かな葛藤で終えるのは、十分な余韻を残している。読者はここで腕を組んで「うーん」と考え込んでしまうかもしれないし、「こういう結末もあり」ととる人もいるだろうし、「これ以上何を書けばよいのか」と潔い二行を讃える人(私)もいるだろう。

ここには死んだ人への思い、もう会うことのない人、との心に残された、わずかな繋がりがあり、前向き、元気さというものはない。その一方で朝(太陽)は来ており、太陽の扱いにはやはりいくらか困惑する。しかし、詩にはこういった唐突さも必要であり、太陽があるから、保たれている。例えばこれが月だったらどうなるかと言うと、唐突さはたぶんないし、意外性もない。この辺りを工夫することもできる。ただ、あまり長く書くと冗長になるようにも思えるので、そのあたりの推敲はトライ・アンド・エラーで書く方は大変な思いをするだろう。太陽か死か、どちらを選ぶのか? あるいはもう少し間口を大きくして、太陽そのものも、冷たいもの、死として、もっと取り入れる試みもできるかもしれない。

全体を読み終えて、冒頭から最後の一語まで流れは良く、読みやすい。たとえも難解ではない。詩は語句の難しさや、奇を衒うものではない、と改めて思わされた。やや自分の世界に沈んでいるが、それは多分、大事な人を失ったからなのではないか、と深読みできる。失恋かもしれないし、死別かもしれない。それは敢えてわからせる必要はないもので、読者に読解の自由さを含むのもまた、詩の面白さではないか。